現代の人生観、主要目的とは何か

こうした悩み事(収入が増えること以外を行うのは無駄だという感覚)は、広く一般に受け入れられている人生観から生じており、それによれば、人生はコンテストであり、競争であり、'勝者'のみが尊敬を払われる。こういう考え方は、感性と知性を犠牲にして、意志の不当な育成に導く。
中略
現代の恐竜たちも、自ら絶減しつつある。彼らは平均して、結婚によって2人の子供しかもたない。彼らは、子供をもうけたいと思うほど人生をエンジョイしていない。この点で、彼らがピューリタンの祖先から受け継いできた不当に精力的な哲学は、現代世界に適合していないことは明らかである。自らの人生観のためにほとんど幸福が感じられなく、子供をもうける気になれないような人たちは、生物学的に見て不幸な結末を運命づけられている。遠くない将来、彼らは、もっと陽気かつ快活な人種によって取って代わられるにちがいない。


退屈は快ではないが、幸福のためには必要なものだ

退屈の本質的要素の一つは、現在の状況と、想像せずにはいられない他のもっと快適な状況とを対比することにある。また、自分の能力を十分に発揮できない(状態にある)ということも、退屈の本質的要素の一つである。

退屈に耐えられない世代は、小人物の世代、即ち、自然のゆったりした過程から不当に切り離され、生き生きとした衝動が、花びんに生けられた切り花のように徐々にしなびていく世代となるだろう。


無為な心配が引き起こす問題点

心配は、よりよい人生観と、あと少しの精神的な訓練によって防ぐことができる。大部分の男女は、思考をコントロールする能力が大変劣っている。何を言いたいかというと、彼らは、何も打つべき手がない場合であっても、その心配事についていろいろ考えるのをやめることができない、ということである。

きちんとした精神は、ある事柄について24時間不十分に考えるのでなく、考えるべき時に十分に考える。困難な、あるいはやっかいな結論を出さなければならない時には、すべてのデータが集まり次第、その問題について十分に考え抜いた上、決断を下すとよい。決断した以上は、何か新しい事実が出てきた場合を除いて、修正してはならない。優柔不断くらい心身を疲れさせるものはないし、不毛なものはない。

恐怖はどのようなものであれ、直視しないことによってよりひどいものになっていく。考えをよそへそらそうと努力すれば、目をそむけようとしている幽霊の恐ろしさが一段と増してくる。あらゆる種類の恐怖に対処する正しい道は、理性的かつ平静に、しかし非常に集中的に、その恐怖がすっかり身近なものになるまで考えることである。ついには、なじんでしまうことにより恐ろしさが薄らいでくる。(そうして)その事柄がまったく退屈なものとなり、考えがそこからそれていく。それも、以前のように、意志的に努力したからではなく、ただ、そういう題目に興味がなくなったからである。あなたが何かをくよくよ考えこみがちになっているならば、それが何であれ、つねに最善の策は、それについていつもよりもいっそう多く考えてみることである。ついには、その病的な魅力も徐々に失われていくのである。


無意識の効用

無意識に有益な仕事をいろいろさせることができる。たとえば、私があるかなり難しい話題について書かなければならないとした場合、最良の方法は、その話題について、非常に強烈に、自分に可能なかぎりの最大級の強度(集中力)をもって数時間ないし数日間考え、その期間の最後に、いわば、この作業を地下で続行せよと命令する、というやり方である。何ケ月か経過してから、その話題に意識的に立ち返ってみると、その作業はすでに終わっているのを発見する。このテクニックを発見する以前、私は、仕事がまったく進まないということで、やきもきしながら、その間の数ケ月を過ごし、そのようにやきもきしても、それだけ早く解答が出るわけではないので、その間の数ケ月は、いつもむだに費やされてしまったが、(このテクニックを身につけた)現在では、その間、別の仕事に専念することができる。

以上全てラッセル幸福論より

この文章が1930代に書かれたことに驚く。